獣医学と歴史(10) 〜タバコで長生き? 疫学の不思議〜
新型コロナに限らず感染症が世の中に広がると、考えねばならないのが「集団」と「病気」の関係です。
いま、色々な人が様々なデータを持ち出して、
「データから予測するとコロナはこうなる」
「過去のデータから推察するとこうだ」
という論理展開がなされていますが‥‥。
「データの扱い方を間違えると、結論も間違う」
今日はそんなお話をしましょう。
1972年、イギリス。
ウイックハン(Wichham)という街で女性の喫煙習慣についての調査が行われました。
調査対象は1314人の女性。
うちわけは、
喫煙者582人。
非喫煙者732人。
20年後、彼女たちの生存率について追跡調査がなされます。
すると、奇妙な結果が導かれました。
喫煙者582人のうち生存していたのは443人。
76%が生存していたことになります。
一方で、非喫煙者732人のうち生存していたのは502人。69%の生存率でした。
タバコを吸う人の76%が生存していたのに、吸わなかった人の生存率は69%だった、というデータが得られたのです。
つまり、タバコを吸った方が長生きするという結論が出たことになります。
これを「データが正しいのだから、得られた結論も正しい」と解釈して良いでしょうか。
実のところ、この話は「疫学」という学問分野では有名な話で、当然ウラがあります。
データに必要な、決定的な因子が欠けているのです。
それは、年齢です。
1972年当時、女性の喫煙者は若い年代において増加傾向にありました。
一方で高齢の女性たちには喫煙の習慣がなく、その多くが非喫煙者でした。
つまり、「喫煙習慣のある女性」は若い年齢層で構成されており、「喫煙習慣のない女性」の多くは高齢者だったことになります。
するとタバコに関係なく、調査から20年経過すれば高齢者ほど死亡している可能性が高いわけです。
ですからこの場合、正しいデータを得るためには「同じ年齢層を喫煙者と非喫煙者に分けて追跡する」必要があったことになります。
このように、データというものは取り方によって、あるいは恣意的に、誤った結論を導くことを可能にします。
ですから報道を見て、
むむ?何か変なデータだな?
本当にそんな結論になるかな?
と思ったら、結論までのプロセスに注意を払うことも大事です。
「ペット犬に新型肺炎?」の報道について(2)
先日、
「ペット犬に新型肺炎?」の報道について(1)
という題で香港での事例について書きました。
このときは
「人⇒犬への感染がおこったかどうかは確定的ではない」
という見解が示されていました。
しかし3月4日、香港政府は
「人から犬への新型コロナウイルス感染が見られた」
と発表しました。
(原文:the dog has a low-level of infection and it is likely to be a case of human-to-animal transmission)
「低レベルの感染」という表現をとっており、感染を受けた犬は症状を呈していません。
全文はこちらで読めます。
https://www.info.gov.hk/gia/general/202003/04/P2020030400658.htm
要約すると、
・2/27, 2/28, 3/2 と繰り返しこの犬を検査した
・その結果、弱いながらも新型コロナウイルス陽性であった
・香港大学公共衛生学院、香港城市大学動物医学及び生命科学院、国際獣疫事務局の専門家で検討し、「犬における低レベルの感染」と結論づけた
・感染犬には何の症状も見られないが、隔離して検疫中である
・犬への検査を継続していく
・現在、ペット動物から人への感染を示す証拠はない
率直な感想としては、もう少し詳しい説明が欲しいところです。
果たして、「人から犬への感染はどの程度起こりやすいのか」。
世界的にヒトの感染者数が増加している中、「犬への感染は香港でしか起きない」と考えるのは非論理的のように感じます。
現実的には「人の検査だけで手いっぱい。犬の検査まではとてもできない」という状況でしょうから、どの程度ヒト→犬感染が起きているかは全くの未知数だと推察されます。
現在、日本の人口は約1億2600万。
犬の飼育頭数は約900万。
14人に1人が犬を飼っている計算になります。
「飼い主から犬に感染がおきる」という事例が相次いで報告された場合、飼い主だけでなく犬も隔離する必要が出てくるでしょう。
感染者が増えれば増えるほど、感染者が飼っている犬の数も増えます。
飼主が入院した場合、残された犬をどうするのか。
犬を隔離する場所はどこなのか。
検査を担当するのは誰なのか‥‥。
(放し飼いの犬: 非常時にはより一層、飼い主の自覚が求められるのだが‥)
問題は山積ですが、まずは
「人⇒犬の感染はどの程度おこりやすいのか」
の情報を集積することが重要だと思います。
幸い、コロナウイルスは種を越えて勢力を広げることがあまり得意でないウイルスです。
今回の香港の事例を見ても、
「犬にウイルスが感染した」
ところまでは読み取れますが、
「犬の体内でウイルスが増殖し、排出されている」
ことを示す記述が見当たりません。
続報を待ちたいところです。
獣医学と歴史(9) 〜歴史を蘇らせるということ〜
一年ほど前、英語の
「quarantine」 = 「検疫する」
の語源がイタリア語であって、
その意味は「40」であることを書きました。
ペスト拡大を防ぐため、ヴェネツィア共和国は感染地域からの船の入港をストップ。
40日間、海上にとどめ置きました。
驚くべきは、これが近現代ではなく14世紀に行われた防疫措置だということです。
しかもヴェネツィア政府は、当初30日だった検疫期間を40日に延長しています。
的確に、そして柔軟性をもって対応していたことがわかります。
当時はPCR検査もなければ、そもそも細菌やウイルスといった病原体に関する基礎的な研究もなされていません。
しかしこの時代でも、
「今までの例からすると、これくらいやっておかんといかんだろう」
という鋭敏な感覚は醸成されていたはずです。
そう言えば、イチロー氏の最大の功績は何か、という問いにある人が答えていました。
「忘れ去られていた偉大な選手たちを、我々の前に蘇らせたことだ」
イチロー氏が安打の歴代順位を上げるたびに、「誰々を抜いて何位」という表現が踊りました。
そのたび、イチロー氏が肩を並べた過去の名選手は記録の淵から遡上し、21世紀に生きる我々の前で躍動したのです。
(Ichiro Suzuki : Wikipediaより)
よい時も悪い時も、
「先人が何をしたのか」
を掘り起こすことは非常に大事です。
私は獣医学という理系の学問領域の人間ですが、歴史学というのは尊いと思います。
それは獣医学にも「経験学的な側面」があって、過去の症例から学ぶ事が非常に多いからです。
もちろん最新の知見、新しいアプローチは大事です。
しかしその土台には過去の知識が集積されています。
新型コロナウイルスに関しては、どうしても先のことばかりに目が行きがちです。
しかし、
「先人たちは感染症とどう戦ってきたのか」
それを学び直す視点も大事だと思います。
なぜ歴史学という学問領域が存在するのか。
「きっと、未来の人々が意味を見出すであろう」
記述した先人の意を無駄にしたくはないものです。
「種特異性」とは?
「この病気は人にうつりますか?」
飼い主さんからよく尋ねられる言葉です。
「種特異性」という言葉があります。
今回はこれついて書きましょう。
ある種の動物には感染するが、別の動物には感染しにくい場合、その病原体は「種特異性が高い」と表現します。
逆に多くの種にまたがって感染がおきる場合、その病原体は「種特異性が低い」ということになります。例えば、あらゆる哺乳類に感染する狂犬病ウイルスが該当します。
さて、では今回問題となっているコロナウイルスですが‥‥。
もともとコロナウイルスの種特異性は高く、種を越えて別の動物に感染することはまれだとされています。
・猫の伝染性腹膜炎
を挙げました。
これらの病気は、人にうつりません。
もう少し生物学的に解説すると、犬のコロナウイルスも猫伝染性腹膜炎ウイルスもα-コロナウイルスというグループに属します。
一方で、今回の新型コロナウイルス(2019-nCoV)はβ-コロナウイルスに属します。
他にγ-コロナウイルス、δ-コロナウイルスというグループが存在しますが、感染するのは鳥類と魚類です。
ですから、「コロナウイルスは種特異性が高い」という認識のもと、誤った情報に流されないことが大事だと考えます。
とは言え、このウイルスについては未知の部分も多いので、各自が慎重に情報を整理する必要があるでしょう。
非科学的な理由による不安視もいけませんし、根拠のない楽観もいけません。
「ペット犬に新型肺炎?」の報道について (1 )
「香港でペットの犬から新型コロナウイルス陽性反応」
という報道がありました。
きのう飼い主さんからもこの件について相談がありましたので、整理しておきます。
報道によれば、ペットの犬から採取したサンプルをPCR検査したところ、弱陽性を示したということです。
原文を見てみましたが、weak positive to COVID-19 virus とありました。
わずかとは言え新型コロナウイルスの遺伝子が犬から検出されたことがわかります。
プレスリリース(原文:英語)はこちらです。
ただ今回、飼い主がすでに新型コロナウイルスに感染していたという点は押さえておくべきです。
また、この犬から採取されたサンプルについても注目しましょう。
三か所からサンプルが採取されています。
口腔
鼻腔
直腸
です。
このうち、PCR検査で陽性を示したのは
口腔と鼻腔から採取されたサンプルです。
(画像はイメージ)
犬は口や鼻を飼い主に近づける習性があります。
つまり今回、飼い主が感染者ですから飼い主のウイルスが犬の口や鼻に付着した可能性を考慮せねばなりません。
あるいは逆に、「すでに犬が感染していて、口や鼻を飼い主に近づけて感染させた」という考え方もあります。
しかし「では、その犬はどこから感染したのか」という点を考えると、可能性は低いと考えられます。
あるとすれば野生動物との接触ですが、飼育下の犬が野生動物と濃厚接触をするとは考えにくいからです。
つまり現時点では、
「犬にも感染し、犬の体内でウイルスの増殖が起こっているのか」
それとも
「人の出したウイルスがたまたま犬の口と鼻に付着していたのか」
の判断がつきません。
香港政府による調査が引き続き行われています。ちなみに、この犬は今のところ無症状だそうです。
まとめると、
「現時点では人から犬、犬から人に感染するという明確な証拠はない」
という事になるでしょう。
ともかく、デマの拡散は非常に危険です。
信頼できる報道を注視しましょう。
WHOのURLをのせておきます。
WHO | World Health Organization
理論的に考え、落ち着いて行動しましょう。