お尻に向かって走れ!
しばらく真面目なお話が続いたので、今日は違う雰囲気のお話を。
屋外で注射を打つ、
というのは往診獣医にとって日常茶飯事なのですが、それでも一日に数回の話ですから特にハードということはありません。
しかし、年に数回、それこそ一日に100、200と屋外で注射することがあります。
それは狂犬病の集合注射のときです。
「うちの犬も毎年公民館に連れて行くよ~」、
という飼主さんは多いのではないでしょうか。
さてこの集合注射、獣医師にとってはある種の戦場です。
だいたい4月から6月にかけて行われるわけですが、
この時期の沖縄はもう気温がかなり高くなっています。
もちろん集合注射はできるだけ日陰で行います。
しかし会場の設営をしていただく市町村の方を手伝ったり、
会場に入るのを拒む犬のために会場の外まで走って行って打ったり、
意外に動きの多い仕事なのです。
はっきり言って結構な肉体労働です。
そして、神経もつかいます。
犬同士、咬みあってケガをさせてもいけません。
飼主さんが咬まれても、市町村のお役人さんが咬まれてもいけません。
自分が咬まれるのは論外です。
獣医が戦闘不能になると、その日の段取りは全てパーです。
振替日の通知やら確認の電話対応やら、行政の仕事も増えます。
何より多くの住民の方にご迷惑をかけますし、接種率も下がるでしょう。
事故の起こらぬようぴりぴりと神経を使い、全方向に視野を広げつつ、
目の前の一頭に確実に接種していかねばなりません。
また困ったことに、この時期の沖縄は梅雨でもあります。
雨とも戦わねばなりません。
ぬかるんだ足場、テントに横殴りの雨。
しかし時間内に終えないと、次のポイントに間に合いません。
アウェイでの技量が試される場と言ってよいでしょう。
さて、二年ほど前のこと。
その日も会場は、多くの犬と飼主さんであふれていました。
獣医師は、私一人。
市の担当の方が四人。
連携して、てきぱきと予防注射を進めていきます。
そこへ、暴れる犬がやってきました。
「いつもは主人が!でも今日は仕事で!こら!シロ!おとなしくしなさい!」
奥さんの言うことは聞かないようです。
歯をむき出し、あたりの犬でも人でも、何なら自分のシッポにまで咬みつかんばかりの勢い。
この場合、いくらなだめても大人しくはなりません。
通いなれた散歩コースをはずれた公民館。
周りは知らない人や犬だらけ。
同伴者はいつものご主人ではない。
テンションを上げるなというのが、どだい無理です。
こういった場合、本来は口輪を装着して来ていただかねばなりません。
案内にもそう書いてあるのですが、よく見落とされます。
こちらにも口輪の準備がありますが、この興奮状態。
装着しようとする段階で咬まれるでしょう。
「先生、どうします」
市の職員さんも額に汗を浮かべています。
時間はどんどん過ぎていく。
順番待ちの列は伸びていきます。
ここで時間を取られるわけにはいきません。
「とりあえず、ケガだけは無しです。皆さんは決して近づかず、正面からあの子の注意をひいてください」
「飼主さんはどうしましょう」
「飼主さんにはあの犬と一瞬だけ、にらめっこしてもらいます。私は後ろから回り込んでおきます。にらめっこの瞬間、素早くお尻に注射します」
さあ、作戦開始です。
もちろん、段取りは飼主さんにも伝えてあります。
その説明中も犬が暴れていたので、ちゃんと理解されたかどうか、
いささか不安な部分はありましたが…。
「ほら~、シロ~、こっちよ~!」
「わんわん!こっちだよー!」
市の職員さんたちが注意をひきます。
シロもそちらに向かって吠えます。
私は注射器を手に、こそこそとシロの背後へ。
今こそ飼主さんが首輪をつかむ時です。
そしてシロとにらめっこ。
一瞬だけ生まれるスキを突けば、お尻にアプローチできます。
しかし何という事か。
首輪をつかまれたシロはびっくりして、吠えながらぴょんぴょん飛び跳ねます。
飼主さんはというと、しゃがんだ状態で必死に首輪をつかんでいます。
しかしシロが跳ねまわるので、今にも手を離しそうです。
もうこうなっては後には退けません。
シロのお尻がこっちを向いた瞬間にダッシュ。
ブレーキをかけながら、一瞬で注射。
横に飛びのいて、咬みつくシロから瞬時に離脱。
この作戦しかないでしょう。
「奥さん!お尻に打ちます!お尻をこっちに向けてください!」
「え?お尻!は、はい!」
今だ!
猛然とスタートダッシュを切ろうとした私の視界に飛び込んできたのは…。
奥さんのお尻でした。
結局すったもんだの末、何とか注射はできました。
ええ、奥さんにではなく、シロのほうに。
狂犬病の集合注射の際には、
犬をコントロールできる人が連れてくること。
それが難しければ、あらかじめ口輪をつけてくること。
私も念のため走力を磨いてはおきますが、
集合注射が安全に行われるよう、皆さまご理解ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。