南の往診獣医さんのブログ

往診獣医が獣医師ならではの視点で動物のこと、社会の出来事、その他の話題についてオリジナルイラスト付きで書いています。

獣医が裸で駆けだす話

しばらく堅い話が続きました。
ちょっと雰囲気を変えてみましょう。

もう何年も前のこと。
ひどく暑い日で、往診中に仕事着の替えを
すべて使い切っていました。
下着の換えはあります。
しかし仕事着がこれ以上汚れると、
もう替えの服がありません。
その先の往診にさしつかえます。

しかし、その日。
往診先で突然の土砂降り。
狂犬病の予防注射に来たのですが、
犬がいるのは敷地の奥。
この大雨で、小屋に入ってしまっています。
しかも困った事に、相当に広い敷地なのです。

雨に煙る小屋を前に腕組みします。
「やむよ、じきに。座ってなよ」
声を掛けてきたのは、日に焼けたおじさん。
他にも、大勢の男たちがいます。
若いのから中年まで、
ざっと二十人はいるでしょうか。

ここは、ある運送会社の事務所。
普段デコトラに乗っている、
荒くれ男たちの集まりです。

「そうもいかんのですよ、次もあるし」

そう言ってみても、雨脚は強まるばかり。
小屋も霞んで見えなくなってしまいました。
しかも横殴りです。
もはや、傘が無意味なレベルです。
事務所のガラスもピシピシと音を立てます。

しかし。
ここで時間を取られるわけにはいきません。

まず、靴を脱ぎます。
もちろん、靴下も。

「ここへ、置かせてもらいますよ」

ポカンとする男たちを尻目に、
戦闘態勢を整えます。

もう着替えが無いので、
服が濡れたら終わりです。
当然、脱いでおきます。
上も下も。
下着の換えだけはあるから、
下着はつけておきましょう。

「ちょっと、先生」
「私が男で、残念でしたな」

そう言い残し、豪雨の中に突入します。
手にはしっかり注射器を握りしめています。
まるで洗車機の中を行くようです。

足元は水たまりなのか池なのか。
ともかく、上下左右すべて水です。
開けた薄眼の中にも割り込んでくる雨。
そのわずかな視界の先に、犬小屋。

「ごめんよっ!」

中にいるのは犬にきまっています。
手の感覚で頭をさぐり、首の後ろにチクリ。

急旋回して、きた道を戻ります。
うまく注射できた高揚感。
三段跳びの選手のように、
大股でバウンディングしながらの帰還です。

「おお、帰ってきたぞっ!」
「どうだ?うまくいった?」

無言でカラの注射器を掲げます。
もう片方の拳でガッツポーズを。

「おお‥‥!」
「よくやった!あんた、プロだよ!」
「タオルだぁ、タオル!!」

そう、この人たちは、トラック乗り。
雨の日も、嵐の中も行くのでしょう。
仕事に誇りを持つもの同士に交わされる、
賛辞と謙遜。

ビールをすすめて来る男もいますが、
さすがにこれは断りましょう。
しかし本当にいいものだ、
男同士の絆というのは‥‥。

「はい、タオル」
「どうもありがとう」

渡された分厚いタオル。
しかし。
顔を上げた私の前に立っていたのは。

事務所のおかみさんでした‥‥。