戦塵の彼方から来た獣医の話
前回、シャーさんのことを書きました。
彼とは印象的な思い出があるので、書き残しておきましょう。
宜しければお付き合い下さい。
シャーさんはアフガニスタンからの留学生で、母国の獣医師資格を有していました。
カブール大学が戦乱で崩壊したため研究の場を求めて来日し、私と同じ研室に所属したのは2003年。
当時彼は30歳で、学部生だった私より年上でした。
あるとき、彼に尋ねたことがあります。
「アフガニスタンは内戦や動乱があって、勉強するのも大変だったはずだ。なぜ、あなたは大学に入り、獣医師になることができたのか」、と。
そのときの返事は、意外なものでした。
「 背が高かったからだ」
どういうことでしょうか。
この回答を紐解くには、アフガニスタンの歴史を知らねばなりません。
彼が6歳の頃、アフガニスタン全土は内戦状態に陥ります。その後、ソビエト連邦が軍事介入。
1989年に撤退するまで、いわゆるアフガニスタン紛争が継続します。
砲火が一時的におさまったとき、シャーさんは16歳になっていました。
しかしソ連軍撤退後もアフガニスタンは国内支配権をめぐり再び内戦に突入。
この混乱の中でアル・カイーダやタリバンが誕生します。
その後の悲劇と混乱は記憶に新しい方も多いでしょう。
2001年、タリバンがカブールから撤退。
国連によるアフガニスタン支援が本格的に開始されます。
暫定行政機構が成立し、カルザイが議長に選出され、ようやく復興への道が開かれたのです。
しかし硝煙の向こうにようやく復興の灯が見えたとき、シャーさんはもう28歳になっていました。
彼の青春は絶え間ない砲声の中で過ぎました。
英語で書かれた彼の履歴書を、学生課に提出するため和訳したことがあります。
彼には軍歴があり、その合間を縫うように大学を出て、獣医師資格を取得していました。
冒頭の話に戻りましょう。
「 背が高かったからだ」
その真意を尋ねました。
彼は真剣な目で語り始めました。
「小学校まで、家から遠かった。朝早く、暗いうちに家を出ねばならなかったが」
治安も悪く、暗い中を子供の足で歩くような距離でもなかったそうです。
そのころ、すでにアフガニスタンでは地域的な武力衝突が頻繁に起きていました。
「明るくなり、大人が表に出るような時間になってから登校するのだが、そのときには教室の中が生徒でいっぱいになっていた。学校の近くの子供が先に教室に入って椅子に座るんだ」
だから私は、とシャーさんは柔和な笑みを浮かべて言ったのです。
「教室の外から授業を受けたんだ。窓から中をのぞいて。黒板はよく見えたよ。私は、背が高かったから」
他にも何人もそうして教室の中をのぞいた子供がいたそうです。
シャーさんは当時からとりわけ背が高かったらしく、多少遅れて行っても人混みの後ろから中がのぞけたらしいのです。
「必死に中をのぞいた。天気が悪い日もそうした。私は」
シャーさんの目には魂を惹きつけるような力が宿っていました。
「学びたかったんだ。私はただ、勉強がしたかったんだよ」
その日まで私は、今思えば本当に恥ずべきことですが、塾や予備校の力を借りずに義務教育だけで高い階段の上に到達した自分を誇る気持ちがありました。
シャーさんの人生に触れ、このとき初めて
「自分は、最初から準備された階段を登ったに過ぎないのだ」
ということに気づいたのです。
シャーさんは祖国を愛していました。
自然を愛し、文化を愛し、言語を愛していました。
自分に義務教育さえ満足に与えなかった祖国を愛していました。
Contribution (貢献)、という言葉を彼は折に触れて口にしました。祖国の再建と発展のために研究をするのだ、と力強く語っていました。
シャーさんは、自らに降りかかった過酷な運命を拒絶するような人生観を持たない人物でした。
彼は運命を拒まず、ありのままに受け入れた上で、その運命と全力で闘う人生を選んだ。
少なくとも私にはそのように見えました。
その生き方は当初全く異質なものとして感じられましたが、多くの留学生たちと交流するうち、異質なのは自分自身なのかも知れないと感じるようになりました。
それからは自分を座標軸の中心に置かないように気をつけています。自分が基準になってしまうと、他者が異様なものに見えてくる危険があるからです。
多様性を認めたとき、初めて個性の躍動が始まる。
これは、人が動物と対峙するときにも忘れてはならない視点だと思っています。
戦塵の彼方からやってきたシャーさんが帰る場所に、彼が愛する母国の歌が満ちていることを願っています。