南の往診獣医さんのブログ

往診獣医が獣医師ならではの視点で動物のこと、社会の出来事、その他の話題についてオリジナルイラスト付きで書いています。

老犬と杖 

老犬が一匹。

立てかけてあるのは、杖。

 

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杖の持ち主は高齢の女性。

集合住宅の一室でひとり暮らしです。

 

この子を安楽死してほしい、という依頼でした。

 

犬は認知症が進んでいます。

食事も、排せつも介助がいります。

しかし杖を見てお分かりいただけるでしょう、

飼主さんは足が不自由なのです。

最近とくに痛みがひどく、

しゃがんでの介助は不可能な状態。

そして、近日中に股関節の手術のため

入院されるとのことでした。

 

自分だってこの子には生きていてほしい、

でも一緒に入院させるわけにもいかない。

 

必死に探したけれど、

代わりに飼ってくれる人も見つからなかった。

自分は入院して手術、そのあとはリハビリ。

もう、この子のために尽くしてやれる自信も気力も、体力も…。

 

「失礼ですが、ご家族は…」

「娘がいました。この犬を拾ってきた子です。…先年、交通事故で亡くなりました」

 

皆さんが往診獣医なら、どうするでしょう。

 

「どんな理由があろうと、終生飼育は飼主の義務ですよ!」

飼主さんを糾弾するでしょうか。

 

「とにかく、飼い始めたら最後まで責任を‥‥」

そう言えるでしょうか。

 

安楽死すれば、すべてはこの部屋で終わりです。

注射をうち、対価をもらって去る。

一人暮らしの部屋、社会の死角。

私たち以外、誰も知らずに終わる話です。

往診車は走り出し、いくつか信号を過ぎる。

やがて獣医は次の仕事のことを考え始めるでしょう。

 

もし、何としても生かそうと思ったら。

この子がもらわれやすいように、

少なくとも飼主さんが元気に戻って来られるまで、

あずかってもらえるように。

獣医師としてできる限りの事をします。

飼主さんにお金がないのはわかっています。

集合住宅の築年数。

装飾品もない、質素な部屋。

暮らしぶりは、おのずとうかがい知れるものです。

健康診断の費用、当面のフィラリア予防薬。

ワクチン接種に、畜犬登録の確認と移動手続きの案内。

正当な対価はいただけないでしょう。

金銭的なことを考えれば、

割にあわないどころか損が明らかな仕事です。

 

安楽死を取るか。

時間と手間と費用のかかる仕事を取るか。

 

結果を先にお知らせしましょう。

この子は、恵まれた環境で静かに天寿を全うしました。

 

このお部屋まで来てくださったボランティア団体の方がいました。

そして、介護を引き受けてくださった方がいました。

老犬を引き受けるのは、

決して容易なことではありません。

知らぬふりもできたはずです。

私も背中を押されるようにして、

できる限りの事をしました。

 

この子は、この部屋から離れた町で余生を送りました。

しかし

「いよいよ亡くなるかもしれない」

というときに、飼主さんは会いに行かれました。

まだ痛みの癒えぬ足で。

 

これは、

決して「よかったね」で済ませる話ではありません。

ボランティアの方々は、

いま大変なご苦労をなさっています。

 

ご自身の時間も生活も、

お金も削って活動していらっしゃいます。

「困ったら、頼ればいいんだ」

という理屈は完全に間違っています。

「困ったときには、どうしたらいいか」

あらかじめ準備するのも飼主の責任なのですから。

 

ただ世の中の問題は、からまった網のように複雑です。

常識や理屈というナタは絡み取られ、

解決すべき事柄を切り取れないことがあります。

しかしまた、この網はその柔らかさゆえに、

たおやかに命を受け止めることがあります。

 

私ひとりなら、折れていたでしょう。

しかし、私以上に

「助けよう」

という気持ちの強い人たちがいました。

 

人は誰かが必死に出したパスなら、

体勢を崩しながらでも蹴りこもうとするものです。

ボールは、何人もの力でそこまで運ばれてきたのですから‥‥。

 

このお話は、数年前の出来事です。

今日、移動中に横を通ったとき、

犬の名前がふと口をついて出ました。

往診するということは、立ちのぼる思い出を、かすりながら町をゆくということなのかも知れません。

 

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