南の往診獣医さんのブログ

往診獣医が獣医師ならではの視点で動物のこと、社会の出来事、その他の話題についてオリジナルイラスト付きで書いています。

獣医学と文学 (2) 〜平家物語〜

今日は日本の古典から。 

 

猫間殿の入らせ給ひて候ふ、と云ひければ木曾大きに笑つて、猫は人に対面するか、これは猫間中納言殿とて申公卿にて渡らせ給ひ候ふと云ひければ、されば、とて対面す

(平家物語 卷第八 「猫間」)

 

口語訳です。

「猫間殿がお見えになりました」と(家来の者が)言うと、(木曽)義仲殿は大いに笑ってこう言われた。「猫が人に対面するのか」「いえ、この方は、猫間中納言殿という公卿でらっしゃいます」と(家来が)言うと、「そうか」と対面した。

 

平家物語に猫が出てきたぞ、と思ったら人でしたね。

この猫間中納言(ねこまのちゅうなごん)というのは藤原光隆という人物です。

藤原北家の実力者で、各国の国司を歴任して正二位まで上りました。

木曽義仲はこの会見中、藤原光隆を猫呼ばわりして愚弄します。

それが京都における義仲の求心力低下に拍車をかけた訳ですが、それはさておいて‥‥。

 

なぜ、猫間中納言などというヘンテコな名前なのでしょうか。

それは当時、「地名+官位」での呼称が一般的だったからです。

例えば宇治大納言物語で知られる「宇治大納言」は「宇治に屋敷があり、官位が大納言である人物」を意味します。

正式な名は、源隆国です。

 

ですから、猫間中納言は「猫間に屋敷がある中納言」という意味です。

京都の壬生あたりを昔、猫間と呼んだ時期があったようです。

藤原光隆は屋敷がそこにあったので、猫間中納言と呼ばれたわけですね。

猫の姿のような地形だったのでしょうか。

それとも単純に猫の生息数が多かったのでしょうか。

いずれにせよ、当時の京都という人口の多い地域において、「猫」というキーワードが珍しくないものだった事が推察されます。

 

ちなみに猫はもともと日本にはいなかった動物です。中国からの輸入され始めたのがせいぜい奈良時代からです。

平安時代にはすでに多くの文学作品に登場しますので、この頃にはかなり広い範囲に生息するようになっていたようです。

 

さて、本題に戻りましょう。

猫間中納言を招き入れた木曽義仲、このあと聞き捨てならない事を言います。

それは、出された食事に箸の進まない猫間中納言を見て義仲が発するコメントなのですが、私はこの言葉を大変興味深く感じるのです。

では、皆さんもチェックしてみて下さい。

どこが、聞き捨てならないのでしょうか。

 

木曽おほきに笑つて、「猫殿は小食(せうじき)にておはすよ。聞こゆる猫下ろしし給ひたり。掻い給へ掻い給へや」とぞ責めたりける。

 

口語訳

木曽義仲は大いに笑って、「猫殿は小食ですな。いわゆる猫下ろし(猫が食事を残すこと)をなさる。もっとバクバク食べなされ」と言って光隆を責めました。

 

いかがでしょう。

これは貴重な証言が得られましたよ。当時の猫と人々との関わり、そして分布域についても、極めて重要な言葉を残してくれました。

このコメントだけでも、木曽義仲にグッジョブと叫びたい気持ちです。

 

解説します。

 

木曽義仲は、「猫が食べ物を残す動物であること」を明らかに知っています。

犬は、出されたものをバクッと食べて、皿まで舐めて終わりです。

しかし猫はゆっくり食べて少し残し、しばらくしてまた食べます。

猫を飼っている方はよくご存知ですね。

 

木曽義仲はまた、「猫下ろし」という、現代では絶えてしまった言葉も伝えてくれました。

当時の人々は「猫が食事を残す」という現象を明らかに把握し、この現象に固有名詞を与えて共通認識化しています。

当時、このような猫の習性が広く一般に知られていたことが伺い知れます。

さて、このわずか数十語の義仲のセリフから分かるのはこれだけではありません。

 

重要なのは、

木曽義仲がなぜ猫の習性を知っていたのか」

という点にあります。

猫間という地名が京都にあったことから、京都においては当時、猫が珍しくない動物であったことはわかります。

しかし、木曽義仲は生涯の極めて短い期間しか京都に滞在していません。

彼はその名の通り、信州木曽の出身です。

倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を撃破して入京したのが1183年7月28日。

しかし皇位継承問題、京都の治安維持、飢饉対策と問題山積の上、早くも9月19日には平氏追討のため播磨国へと出陣しています。

10月15日には京に帰還しますが、今度は対頼朝戦に注力せねばならない状況に陥ります。

翌1184年1月には早くも頼朝軍と交戦。

そして1月20日近江国で討死してしまいます。

つまり、京都あるいは京都周辺の文化圏に触れた期間は半年に満たず、その間も多忙な毎日を送っています。

 

このわずかな、しかも慌ただしい期間に、義仲は猫の習性を観察する余裕があったでしょうか?

恐らく、それどころではなかったでしょう。

 

すると彼はどこで猫を観察していたのか。

木曽義仲は二歳の頃から信州木曽に住み、そこで成長したとされます。

生い立ちについて詳しい資料は残っていませんが、世は平家全盛の時代を迎えていました。

清和源氏の系譜をひく彼の出自から考えれば、基本的には山深い木曽でひっそりと暮らしていたと見るべきでしょう。

「猫はチビチビ食べる」

という習性を彼が知るとしたら、木曽にいた頃と考えるのが妥当です。

つまり平安時代末期、山深い木曽にもすでに猫は分布しており、人間と近いところで暮らしていたことがわかります。

 

 

一つの時代の終わりに閃光のように現れ、幻のように消えた木曽義仲

粗野で横暴だったと伝わるその男は、本当に厚顔無恥な武将だったのでしょうか。

 

f:id:oushinjuui:20181231020304j:image

 

しかし私は何となく、目に浮かぶのです。

膝を抱えて、じっと猫のふるまいに見入っている、少年義仲の姿が。

時代が彼を選ばなければ、あるいは温和な人物として生涯を送ったかも知れません。

 

源平の戦いに身を投じ、若くして戦場に散った朝日将軍・木曽義仲

彼は図らずも現代の猫愛好家にとって貴重な証言を残し、そそくさと歴史の表舞台から去っていきました。

まるで足音を残さぬ、猫のように。

 

f:id:oushinjuui:20181219024117j:image